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緑の街と緑の人びと
第五回 
今回はフライブルク市の緑の施設について、少し歴史を振り返る形で掘り下げてみましょう。日本とは異なり、学校に必ずしもグランドを持たないドイツでは、放課後に子供たちが集まって遊ぶ場所は近所の児童公園です。前回までに私は、フライブルク市には一四〇ヶ所を超える公園があると書きました。そればかりかこれからも公園の数は増え続けます。なぜならフライブルク市は毎年五ヶ所を目標に児童公園を新設・改築しているからです。
ここで自然な疑問が浮かび上がります。「なぜフライブルクはそこら中に、そしてこうも簡単に公園を作ることができるのか?」という疑問です。私はこの疑問に対していくつかの答えを用意しています。私が説明する答えだけが日独の相違点ではありません。しかし、日本とドイツの「環境保護」を考える上で、皆さんに是非知っておいてもらいたい点だと思っています。
日本は明治に入り突然、短期間で近代化を成し遂げました。このとき明治の新政府は、国の土地で山以外の平地をほとんど民間に払い下げました。つまり鉄道を作るため、軍艦を買うため、インフラ整備を行うために必要なお金は、土地を売って作ったのです(もちろん土地だけではなく、ありとあらゆるものを売り払い、また借金をしたというほうが適切でしょう)。従って今となっては、日本のほとんどの平地は民間のものです。この状況では自治体は公共の空間(道路や公園など)を自由に作ることはできません。この事実は今でも、都市計画を行う際に大きな障害となっています。
翻ってドイツです。自治体のほうが国よりも先に存在し、機能していたのが西洋ですから、現在でもなお膨大な土地を自治体は所有しています。それは公共の空間を比較的自由に、そして安価に作れることを意味します。また第二次世界大戦後に戦災都市の復興や再開発を行うにあたって、@大戦前の状態への復元、A交通の発展と都市機能の分離、再配置という二大原則が厳しく適用されたのも日本と違うところです。

写真:酸性雨で病気になった森。
それでは、日本の自治体がある程度の土地を持っていたとしたら、フライブルクのように多くの公園を市内に作ったでしょうか? ドイツは日本より過酷な近代化の波にもまれたにもかかわらず、どこの都市でも市内に緑を残しています。それはドイツが自然を過去に一度、徹底的に破壊してしまったからだと私は考えます。
ドイツでは日本よりもずいぶん早くから金属・ガラス工業が発展しました。その燃料として森という森の木がなぎ倒されたのです。一七世紀末にはドイツ人の心ともいえる森が最も少なくなっています。そればかりか、その後もヨーロッパでは自然に対する攻撃が続きます。一八世紀の産業革命。ロンドンに代表されるような「灰色の街」がドイツにも広がり、都市は郊外から流入する人口で溢れかえります。車の普及も酸性雨などの脅威を拡大した原因の一つです。
そんな歴史、自然を破壊してからはじめて気付く自然の有難さ。ここがドイツの環境保護の原点だといえるでしょう。破壊から再生へ。この歴史があるからこそドイツの街並みには緑が置かれる様になったのです。

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村上 敦
(ムラカミ アツシ)
1971年生まれ。岐阜高専土木工学課を卒業後、ゼネコンに入社。東京湾埋立工事 などにおいての環境破壊の惨状に疑問を感じ、ドイツ・フライブルクへ留学。フライブルク大学独文科に在籍しつつ、ドイツの環境政治・行政を学ぶ。途中ドイツ人女性と結婚し、休学。その後、フライブルク地方市役所・建設局に勤務し、
現在は日本の環境機器メーカーのアドバイザー、兼主夫。HP(www.geocities.jp/freiburg2004report/)でフライブルクの行政についての分析を行う。」 |
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