1月30日(水)
今日から40年前、
ドイツのフライブルク市ではその当時を象徴する歴史的な出来事が発生しました。
当時の社会といえば学生運動や社会運動が激化した1968年。
その時の連邦政府は、
国民的な2大政党である保守政党(CDU)と社会民主党(SPD)が大連立を組んでいて、
社会は停滞した閉塞感に悩まされていました。
日本よりも10年戦後の復興が早かったヨーロッパ諸国においては、
どこでも成長のドタバタが一息ついたという感じだったのです。
そんな中、全国的な政党で唯一の野党であった自由民主党(FDP)が
フライブルク市において連邦の党大会を開きました。
そこでは新しいFDPの政策、ソーシャル・リベラルを目指すという方向性が決まりました。
この党大会では、ラルフ・ダーレンドルフ議員が思想的な意味でリーダーシップを発揮しています。
そんな国会内の小さな野党であったFDPの党大会を、
会場の外で取り囲んだのがAPO(国会外野党)の民衆です。
民衆といっても、ほとんどが学生(とりわけ社会主義ドイツ学生同盟:SDSのメンバー)か
社会活動家で、そのAPOの代表役を務めたのがルディー・ドュチュケです。
ドュチュケとAPOは、党大会の会場の外から、場外での討論を挑みかけ、
それにFDPのダーレンドルフが答える形で歴史的な一コマが誕生しています。
テレビ中継車の屋根の上に、ドュチュケとダーレンドルフが上り、
下から報道陣がかざすマイクに向かって、
数百名の学生運動家に取り囲まれながら2人はお互いの主張を繰り広げたのでした。
うーん、熱い一瞬ですねえ。
この一幕を知らない、そしてこれに対して何の意見も持たないドイツ人は、
まあ、教養人とは呼ばれないといった類の歴史的な現象であったわけです。
もちろん、その当時のAPOの主張は極端なもので、
国会や政府は我われの改革のためには役に立たない云々という、
今の時代の私たちが聞けば可笑しくなるような演説です。
しかし、その演説には時代背景が伴っていました。
ドイツでは、1967年、68年に行われたこの学生運動・社会運動の恩恵で、
新しい思想や思考、志向が模索され、
40年後の今ではその方向が成熟して社会に定着しています。
例えば、学校の授業などで先生という「権威」に対して、
生徒は従順するという日本と同じような制度を採っていたドイツは、
今ではそうしたスタイルはあまり見かけなくなりました。
つまり教壇に教師机に対峙して生徒が机を並べるというのは、ほとんどみかけませんねえ。
円卓に近い形で、あくまで両者の対話で知識を向上させようというスタイルが、
この時代からはじまって確立されたというわけです。
さらに両親に対して、敬語を使わなくなったのもこの時代の人々からでしょう。
この1968年1月の活動から3ヵ月後の4月11日、
ドュチュケは同じSDSのメンバーから3発の銃弾を浴びせられ、一時危篤に陥ります。
何とか一命は取りとめたものの、10年後の1979年12月、
ドュチュケは銃弾の後遺症によって浴槽で癲癇をおこし溺死しています。
その20年後の1998年には、緑の党はSPDとの連立政権で
はじめて政権に入り野党から与党へと変貌しています。
ドュチュケは、死の直前まで緑の党の設立に精力的にかかわっていました。
APO、国会外野党の勢力は、
30年の歳月で副首相や外務大臣を生み出すまでの国会内の勢力へと生まれ変わったのです。
