カルチャー

2017年

2月

19日

イオル日記『日ノ本翳おくり』 第四回 ずっと続いてきたもの

©小林伸司 / ヒノモトカゲオクリ
©小林伸司 / ヒノモトカゲオクリ

www.eco-online.org Blog Feed

イオル日記『日ノ本翳おくり』 第四回 ずっと続いてきたもの (日, 19 2月 2017)
>> 続きを読む

<アースタロット>火について (火, 14 2月 2017)
>> 続きを読む

がんばれ!地球マン その114 電力自由化編 (火, 31 1月 2017)
>> 続きを読む

<アースタロット>花について (月, 09 1月 2017)
>> 続きを読む

<Music Go! green アルバム再掘レビュー>#2 加藤和彦 / ぼくのそばにおいでよ (土, 31 12月 2016)
>> 続きを読む

<アースタロット>太陽のひみつ (火, 06 12月 2016)
>> 続きを読む

神谷カフェの季節のレシピ 『旨辛!インドスパイスのチリビーンズ』 (日, 04 12月 2016)
>> 続きを読む

イオル日記『日ノ本翳おくり』 第三回 今、ボクらは (日, 27 11月 2016)
>> 続きを読む

神谷カフェの季節のレシピ 『小かぶのクリーム煮 スパイス風味』 (火, 15 11月 2016)
>> 続きを読む

<アースタロット>重力の意図 (火, 01 11月 2016)
>> 続きを読む

0 コメント

2017年

2月

14日

<アースタロット>火について

CC BY-NC-ND 2.0 by Kai C. Schwarzer
CC BY-NC-ND 2.0 by Kai C. Schwarzer

両親が亡くなり、1年に数回、

実家に通って整理をしています。

いろいろな書類や写真が山のように出てくるたびに、

暖炉で燃やします。

 

ゴミに出すよりも

自分で決着をつけて整理ができる気がして、

暖炉があってよかったー!と

思うことがしばしば。

 

 

 

今回は、「火」について、

タロットを通して、

この世を総括している存在(宇宙?)に聞きました。

 

 

「火の元とは、

たくさんの停滞したエネルギーが寄せ集まっているもの、

だから変化(昇華?)させなくてはいけない」

そのために火がある、

とのことです。

 

 

この世からその形(重さ)を取り去り、

炎として燃えあがらせ、昇華していくことが必要だとか。

 

コントロールされ、作られた

苦しい形の中から自由になる、

エネルギーの資質が変化して宇宙に帰化する、

という感じでしょうか。

 

 

人間の身体も同じく、

父や母の魂が入っていた肉体も

燃やしてしまえば灰。

 

形から解放された両親は

私が想像もできないほど自由なんだろう思い、

うれしくなります。

CC BY-SA 2.0 by Hernán Piñera
CC BY-SA 2.0 by Hernán Piñera

 

宇宙が言うには、

停滞したものを燃やし尽くせば、

人間は直感だけで生きることができると言います。

 

実際の炎をたてて燃やさなくても、

火のエネルギーを使えば良いとのこと。

 

 

 

タロットでは、

ワンド(木の棒)のスートが火のエネルギーをも表現します。

 

その意味は、

ワクワク感や希望、パッション、

クリエイティヴィティ、などなど。

 

そういうもので燃やすことも、

火と同じように可能。

 

 

ダイエットの世界でも、

脂肪燃焼といいますし!

停滞したLowなものを

Highに昇華させるという点においては

実際の火の効果と

同じことになるのではないでしょうか。

 

 

そして、

Lowなものは、火の力によってのみ

Highな状態にいくことができる。

 

つまり、火は

”エネルギーの状態を変化させる”

ということになるのだと思います。

 

 

もうひとつ大事なことが。

 

Lowな状態のエネルギーというのは、

言うなれば

”閉じられた状態” のこと、

なのだそうです。

 

何かの形の中に収まっていることを

信じきってしまっている、

勝手に孤独を感じているようなものらしい。

 

たとえば、

肉体の中に入っている人間の魂もそうかもしれません。

 

この世の在り方を恐ろしいと思っていて、

その中で自分に害が及ばないように

どうにかうまく生きていかなくては、、、と

ヒヤヒヤしているのが

現代の普通の人間の状態だそう。

 

 

しかし、心にほんのちょっとでも火がついたら、

 

そしてそれがだんだん大きく燃える炎になっていけば、

 

知らず知らずのうちに

停滞のエネルギーが昇華されてゆき、

思い込みによって自分が作っていた枠が

薄れてなくなっていくのだそうです。

 

何かに向かって行きたいエネルギーが生まれ、

そこには、今まで感じていた

人生への恐れがなくなるらしい。

 

そうなればグングン健やかにエネルギーは伸びていって、

いろいろなものと楽しく絡み合うことが

できるのだそうですよ。

 

知らず知らずのうちに他者に影響を与え、

受けとり、

学びあう、

ということが無意識のうちに

ごくごく自然に行われるようになるのだそうです。

 

 

それはもう閉じられたエネルギーではなく、

開かれたエネルギーになっているということだそう!

 

 

これは、夢物語のように聞こえるかもしれませんが、

じつのところ非常に実際的であり、

人間の本来あるべき在り方、

これをすれば本当の意味で安定を得られます、

と宇宙は言っていました。

 

「火」とは、我々と無関係にあるわけではなく、

人間ならば誰しも持っている

クリエイティブな欲求というものを

太古の記憶から引き出させてくれるようなもの、

 

そのために炎を見つめなさい、

 

と宇宙は言います。

 

 

「これをこうしたらすてきになるかもしれない」とか、

「そうだ!あれを作ってみよう」などと

クリエイティブな気持ちになるとき、

火のエネルギーが

我々の中で立ちあがっているのだそうです。

 

それは

どす黒く停滞したものを

燃やす事ができるって。

 

火のエネルギーを立ち上げるということは、

変化する、という事なのだと思います。

 

 

なぜ今こんなにも "断捨離" が流行しているかと考えてみれば、

便利なもの、あるいはいらないものを排除して、

「クリエイティブになりたい」、

ということなのではないでしょうか。

 

そしてそれを実行するということは、

イコール「変化」していく

ということになるのだと思います。

CC BY 2.0 by Phil Dolby
CC BY 2.0 by Phil Dolby
続きを読む 0 コメント

2017年

1月

31日

がんばれ!地球マン その114 電力自由化編

さく つやまあきひこ

関東(かんとう)では福島県の須賀川(すかがわ)ガスさんが太陽光

発電の電力の供給(きょうきゅう)を行ってくれています。(作者談)

前へ | 次へ

0 コメント

2017年

1月

09日

<アースタロット>花について

CC BY 2.0 by Nobuyuki Kondo
CC BY 2.0 by Nobuyuki Kondo

今日、夕飯のサラダを作っていたとき、

突然、今回のテーマは「花」がいいんじゃないかと閃きました。

 

そういえば、なぜ今までやっていなかったんだろう、花。

 

 

原発事故の後、道を歩いているとき、

野花が咲いているのを見て、心が痛かったです。

目には見えないけれど

 

放射能がたくさん降っているにちがいないのに

花はそれでも可憐にけなげに咲くんだな、

と思ったことを覚えています。 

 

この世を彩る花々。

 

結婚式、お葬式、お祝い、

我々の儀式にもいつも花が使われています。 

 

花を見て慰められたり、

インスピレーションをもらったり、 

 

だけど、この世に花がある意味は何?

我々を楽しませてくれるため?

世界を彩るため?

CC BY-NC-ND 2.0 by Daniel Horacio Agostini
CC BY-NC-ND 2.0 by Daniel Horacio Agostini

花のエネルギー

原発事故のとき、花を見て心が痛かったのは、

花は動くことができないからなのでした。

我々人間は、環境が悪くなれば

そこから逃げようと思えば逃げる事ができるのに、

花はどこにも動けず、

そこで咲いていなくちゃいけないなんて!

なのに、あんなにけなげに可憐に咲いている、、、。

 

 

しかし、花のエネルギーを

カードに降ろして聞いてみますと、

花は常に

「今いる場所で満足」だそうです。

どんなときも。

 

花は、自分が大丈夫だということを知っているから。

宇宙と同じ目線でいるので

危険がないのだそうです。

 

我々人間のような三次元的思考で

不安を膨らませ、勝手に魔界を作り、

自分をあえて不幸にしたりはしない。

 

常に高波動でいるために

低い波動からの害を一切受けることがない、

という感じでしょうか。

 

だからおかしな同情なんて

花には一切不要なんだそうですよ。

 

 

そんな花(のエネルギー)が言うには、

人間は花を最大に利用していない、

とのこと。

 

人間はかなり低い波動で

花というものを扱っているそうで、

花としては、

人間が何を一体求めているのかな、は~~。。

といった感じです。

 

つまり、人間は花のことを(も?)ぜんぜん分かっていない

ということ。

花はファンタジー

じゃあ、花っていったい何なの?

と、この世を総括している存在(宇宙?)に聞きましたところ、

 

花は ”ファンタジー” なんだそうです。

 

そんなこと薄々人間だって分かっているけど、、、。

 

しかし宇宙が言うには、

人間の花に対する ”ファンタジー” の概念自体が

ちょっと違うのだそうです。

その規模がちがうと言いますか。

 

次元が変わってしまう勢いで、

人間は花のファンタジーを完全に信じて

もっと深く酔いしれなくてはいけない。

 

なぜなら、そのファンタジーは

宇宙からのブランド印を押されて保証された

「完全にリアル」なものだから、

現実逃避とかそういう問題ではない。

 

人間がクサクサした思いを抱いている現実のほうこそが

じつは趣味の悪い妄想のようなファンタジーであり、

宇宙から見れば ”完全に非現実” なのだそうです。

ありもしない妄想の世界に浸り込んで

自ら好んで地獄を見ている…かのような。

 

 

花が表現するファンタジーこそが

ほんとうのこの世界のリアル。

それをしっかりと見なくては!

 

そして、人間は花と同化したエネルギーになればいい、

とも宇宙は言っていました。

 

ファンタジーそのものになれということ?!

花のパワー

人間には花が与えられています。

 

誰かからのプレゼントだったらうれしいけれど、

そうでなくても、

そこらへんに咲いている花や、

自分のものじゃなくてもあなたが目にする花々は、

じつは、、

すべてあなたへの宇宙からのプレゼント!

ということなのだそうです。

 

そんなプレゼントをもらえるあなたは

本当に尊い存在なのですよ!!!

ということらしい。

 

そのことを知るだけでも

突然前向きになれるでしょう?

と宇宙は言ってました。

 

つまり、花は我々人間に、

自分が本当に尊いもの、だという価値を

気づかせてくれる存在。

 

 

 

そして、花を見ただけで人間は

恨み節や後悔や、意味不明なクサクサした思いから

さりげなくもあっさりと卒業することができる!

と、宇宙は断言します。

 

花を見つめている瞬間の人間というものは、

それまでどんなにモヤモヤと

ネガティブなことを考えていても、

それを後ろに置きざりにすることができる!

はずなのだそうです。

 

 

それは花にパワーがあるというよりも

花を見ると

自然と人間はそのような状態になる、

魔法のようなものが存在する

と言ったほうが近いのかもしれません。

 

そのすてきな魔法をかけてくれるために、

花はありえないほど摩訶不思議な

神秘なかたちや美しさを

あたりまえかのように持っているのだそうです。

 

 

 

悲しいとき、心が苦しいときは

花を買って帰りましょうか。

 

 

そして、花瓶に生けて、

本当にきちんと花を見つめて

ファンタジーに酔いしれることを

試してみる価値があります。

 

 

そしてそのファンタジーの感覚でいる世界こそが

この世のあるべき本当の世界、

宇宙と完全に波長が合った状態

なのだそうですから。

続きを読む 0 コメント

2016年

12月

31日

<Music Go! green アルバム再掘レビュー>#2 加藤和彦 / ぼくのそばにおいでよ

 

今年2016年は邦画豊作の年であった。

「シン・ゴジラ」「君の名は。」他、上げればキリがないが、年末も迫った11月12日に公開となった映画「この世界の片隅に」は、呉を舞台に主人公のすずが戦争と隣り合わせの日常を送るという内容。コトリンゴの歌う「悲しくてやりきれない」が作品を絶妙に引き立たせている。

「悲しくてやりきれない」はザ・フォーク・クルセダーズの楽曲であるが、その中心であった加藤和彦と言えばみんなさんは何を思い浮かべるだろうか。

 

自由の気風

加藤和彦と言えば「帰ってきたヨッパライ」「あの素晴しい愛をもう一度」他、盟友北山修との作品を思い出す向きも多いだろう。

加藤和彦は現在では日本のフォーク界の旗手との認識が多い。しかし、彼はいつでも時代の最先端にいたことをお忘れではないだろうか。

残念ながら彼は2009年、鬱病によって亡くなってしまった。だが、このまま彼をフォーク界の旗手として時代に埋もれさせておくのはあまりにも惜しすぎる。

映画が公開された今だからこそ、この機会に加藤和彦の音楽への今一度の再考をしてみたい。

フォーククルセダーズ

左から、はしだのりひこ、北山修、加藤和彦
左から、はしだのりひこ、北山修、加藤和彦

60年代、加藤はフォーククルセダーズというある年代にとっての「時代の象徴」ともいえる伝説のグループを率いていた。

 

「フォーク」という単語がグループ名に入っていることから誤解を招かれてきたことであるが、実際は「フォーク」以前より活動したグループであり、もともとは世界の民謡(=Folk)を紹介する十字軍(=Crusaders)というコンセプトから生まれたバンド名である。

 

この偶然の奇跡ともいうべき命名は、後々加藤を苦しめることになる。

 

加藤はこのグループで作曲家としてのキャリアをスタートした。

そもそもメンバーは3人ではなかった時期もあるのだが、一般的な認識としてのフォークルとは北山の通っていた大学が1年の休学の憂き目にあっていた時分に、限定的に再結成された3人編成のトリオのことである。

 

ご存じ「帰ってきたヨッパライ」「悲しくてやりきれない」などのヒットを飛ばし、フォークル解散後、加藤和彦は、ミカ夫人、高橋幸宏、小原礼、高中正義らを率い、サディスティックミカバンドを結成。その後の活躍は言うまでもない。

フォークル以降、ミカ以前

69年作 初のソロ作品 「ぼくのそばにおいでよ」
69年作 初のソロ作品 「ぼくのそばにおいでよ」

フォーククルセダーズを解散し、ミカバンドを結成するまでに彼は2枚のアルバムを発売している。

ナショナル住宅で有名な、と言えばいいのだろうか、「家をつくるなら」が入っている1971年作の「スーパー・ガス」と、この1969年作の「ぼくのそばにおいでよ」だ。

この2枚、発売時期は2年弱ほど間が空いているのだが、そのためか前者がサイケ・フォーク、後者がグラムロック・アシッドフォークと、加藤の興味の移り変わりを示している。 

 

71年作 「スーパー・ガス」
71年作 「スーパー・ガス」

フォーククルセダーズの世界を拡張したような「ぼくのそばにおいでよ」と、ミカバンドの予告編のような「スーパー・ガス」という関係になる。

 

 

知ってか知らずか、フォーククルセダーズは演劇的な世界観というものを演出することが多々ある。「当世今様民謡大温習会(はれんちりさいたる)」というライブ盤では視覚と聴覚に訴えかける時代を先取りしたライブ(残念ながら映像は残っていない)を行っていたようだ。

 

その点、ミカバンドはその演劇場から一歩踏み出したスケールのある音楽が魅力だ。

 

いかにして加藤は演劇場から踏み出したのだろうか。そのミッシングリンクがこの「ぼくのそばにおいでよ」である。

音のおもちゃ箱

当初の加藤和彦のアルバムは満足に再発されているとは言い難く、何らかの企画の一環としてオリジナルアルバムが再発されているという状態で、非常に入手が難しい。そのことも氏の再評価の難しさを物語っている。

そうした不遇はアルバムを出した当初も同じだった。もともとこの「ぼくのそばにおいでよ」は2枚組で構想されており、加藤が考えた題名は「児雷也」であった。しかし、レコード会社によって1枚に変更され、曲順、収録曲、タイトルと全てがレコード会社主導によって決定されてしまうという憂き目に遭う。このことはアルバム内の「児雷也顛末記」において、加藤が詳細にかつ冷静に記述し、会社への忠告を発している。

内容についてであるが全ての曲がジャンルによらず箱庭的であり、曲ごとに印象がガラリと変わる様は収録曲のタイトルを借りて言うならばまさに「僕のおもちゃ箱」である。中には9分以上に及ぶ大曲も含まれているのだが、壮大でありつつもどこか内にこもった演劇的な世界観である。

 

続きを読む 0 コメント

カルチャー記事一覧

«一つ前のページへ戻る