太陽光発電で再び照らせ、原爆の図

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原爆の図丸木美術館学芸員の岡村幸宣さんにお話をうかがいました。

 

取材・文/加藤 聡

写真/小林伸司 (神永写真館)

岡村幸宣(おかむらゆきのり)さん

東京造形大学造形学部比較造形専攻卒業、同研究生課程修了。2001年より原爆の図丸木美術館学芸員として勤務。主な担当企画に「『原爆の図』を巡る絵画表現」(原爆の図丸木美術館 2004年)「丸木スマ展 樹・花・生きものを謳う」(埼玉県立近代美術館・2008年)、「OKINAWA つなぎとめる記憶のために」(原爆の図丸木美術館・2010年)、「チェルノブイリから見えるもの」(原爆の図丸木美術館・2011年)。論文に「生命の「曼荼羅図」 ―丸木スマの絵画をめぐって」(埼玉県立近代美術館『丸木スマ展図録』・2008年)、「『原爆の図』全国巡回展の軌跡」(花書院『原爆文学研究』第8号・2009年)、「丸木位里の『前衛』と歴程美術協会」(東京国立近代美術館『現代の眼』585号・2010年)など。

 

被爆者の記憶が込められた原爆の図

 1945年8月――。広島出身の水墨画家・丸木位里(いり)は、妻で油彩画家の俊とともに、原爆投下直後の広島に駆けつけた。そこで2人が目にしたのが、想像を絶するような凄惨な光景。この時の記憶と、8月6日当日の証言をもとに描かれた「原爆の図 (第1部『幽霊』)」は、日本中に大きな衝撃を与えた。

 

原爆の図 第1部「幽霊」
原爆の図 第1部「幽霊」

 原爆の図が発表されると、それまで声を潜めていた多くの被爆者が自らの体験を語りはじめた。丸木夫妻のもとにもたくさんの声や資料が届くようになる。

 

「米軍の占領下で表立って声を上げにくい時代でした。報道規制が敷かれるなかで、広島で起きたことを何とか残さねばとの想いから誕生した原爆の図は、被爆者の想いを受け止める器のような役割を担っていたんだと思います。そうした想いに応えるように、丸木夫妻は以後、30年以上に渡って続編を描き続け、全15部作を数えるようになりました。原爆の図は丸木夫妻の共同制作ですが、決して2人だけで描いたものではなく、無数の被爆者の記憶が込められた作品なのです」

 

 原爆の図を常設展示する「原爆の図丸木美術館」の学芸員・岡村幸宣さんは、作品誕生の背景をこう説明してくれた。

 

「やがて2人は、原爆の図を携えて全国各地を巡ります。さらには、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、オセアニア、アメリカなど、世界20ヵ国以上で巡回展を実施しました。日本では原爆の惨事を伝えるメディアの役割を果たした原爆の図は、世界中でも数百万人が目にし、戦後、最も知られた絵画の1つと言われています」

 

インタビューは都幾川を見下ろす高台で行われた
インタビューは都幾川を見下ろす高台で行われた

 そんな旅する絵画だった原爆の図を、展示・保管する目的で、1967年に設立されたのが、埼玉県東松山市にある「原爆の図丸木美術館」だ。美術館のすぐ下を流れる都幾川(ときがわ)は、「故郷(広島市)の太田川に似ている」と位里が愛した風景だという。厳しく重い作品の一方で、四季を彩る草花や樹木といった美術館を取り囲む豊かな自然もまた、同館の“展示物”として欠かすことができない。

 

小さな美術館から見えたもの

 丸木美術館と原爆の図を語る時、重要な役割を担っているのが学芸員である岡村さんの存在だ。反戦・非核という、ともすれば敬遠されがちな重いテーマを持つ「原爆の図」という作品の価値を、私たち見る側にわかりやすく伝え、見事に橋渡しをしてくれる。

 

「学芸員として働く一方で、大学の講師として呼ばれるのは『平和学』や『歴史学』の授業ばかり。僕としては、美術の大学を出て、美術館に勤めて、ずっと美術に関わってきているつもりなのですが、周囲はそうは見てくれていないようです(笑)」

 

 岡村さんと丸木美術館の出会いは、学芸員の資格を取得するために行った博物館実習だった。この時は、まさか将来働くことになるなど、想像もしていなかったという。

 

「当時は全国各地に公立の美術館が建てられていた最後の時期で、授業や見学の対象となるのは、いずれも大きな美術館ばかりでした。あまり知られていない小さな美術館の実情を知りたいと思っていた私は、ハコモノとは最も対極にありそうな場所として選んだのが丸木美術館だったんです。ところがいざ来てみると、授業で学んだことがほとんど意味をなしません。最初に行った仕事はタケノコ掘りでした(笑)。美術館裏の竹やぶで朝掘りしていると、向こうから着膨れしたおばあちゃんが歩いてくる。よく見たら俊さんで(笑)。そんな昔話のような世界が残る、かなり浮世離れした場所でしたね」

 

 実習を通じて、丸木美術館の運営には、普段の日常や地域のつながりと常に密接な関係にあることを知る。その後、自転車放浪で訪れたヨーロッパの地方都市でも、まったく同じような感覚を抱いたそうだ。

 

原爆の図丸木美術館
原爆の図丸木美術館

「ヨーロッパの美術館というとみなさんがイメージされるのは、ルーブルやオルセー、プラドなどのメガ美術館だと思いますが、自転車で巡っていると、地方の町や村には小さな美術館がいくらでもあるんですね。鍵を渡され、『自分で開けて見学して』と言われる場所もありました。地元の人たちはそうやって代々、美術館を守り続けてきたわけです。文化や芸術は本来、それぞれの土地に生きる人々の営みから発生するものだということに気付いた時、これを日本で体現しているのは、行政や大手企業の資本とは無縁で、原爆の図という作品を守ろうという人たちが作り上げてきた丸木美術館なんじゃないかと。それからですね、ここで働こうという決意を固めたのは」

 

 働き始めて今年で12年目になるが、いつも少ない予算に頭を悩ませていると岡村さんは笑う。日々、イベントや美術展の企画・準備、関係資料の調査研究、講演や新聞・雑誌原稿の執筆、取材対応と、目の回るような忙しさのなか、丸木美術館の魅力や夫妻の残したメッセージを世に発信し続けている。

 

つながってしまった広島と福島

 丸木美術館では、約60年前に描かれた原爆の図に、現在を結びつけながら展開していく「企画展」を定期的に開催している。

原爆の図 第9部「焼津」
原爆の図 第9部「焼津」

 2011年2月下旬から行われた企画展のテーマは第五福竜丸事件。1954年3月1日に太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験に遭遇し、焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23人が被爆した事件だ。この時の騒動は、原爆の図 第9部「焼津」、第10部「署名」でも描かれている。

 

「3月5日には、第五福竜丸乗組員の大石又七さんを招き、トークショーを行いました。なかでも印象に残っているのが、大石さんが語った『被爆は私たちだけの体験だけではない。核実験はその後も続いているし、空気も水も汚染されている。誰もが被爆者になる世界を生きているということを、もっと感じてもらいたい』という言葉。それからわずか6日後、その言葉は私たち日本人にとって現実のものとなってしまいましたから……」

 

 また2011年は、チェルノブイリ原発事故からちょうど25年の節目の年だった。秋には、チェルノブイリの事故で被害を受けた“風しもの村”チェチェルスクの人びとの暮らしを描いた画家・貝原浩さんの原画展を予定していたが、急遽、開催を5月に繰り上げた。そして12月に行った、若手アーティスト集団「Chim↑Pom(チンポム)」の個展「LEVEL 7 feat. 広島!!!!」は、これまで丸木美術館を知らなかった若い世代が数多く訪れるなど、大きな反響を呼んだ。

 

自然光を取り入れるための天窓があるなど、展示室は電気を極力使わない設計となっている。館内にはエアコンも設置されていない
自然光を取り入れるための天窓があるなど、展示室は電気を極力使わない設計となっている。館内にはエアコンも設置されていない

「渋谷駅構内に展示されている岡本太郎の壁画、『明日への神話』に福島原発事故の絵を付け足した事件で彼らを知った人も多いと思います。もともと、Chim↑Pomの展覧会を行う話は挙がっていたのですが、“お騒がせ集団”とも称される彼らの作品を、丸木美術館が取り上げようとすることに、憂慮の声も少なくありませんでした。しかし、原爆投下直後の広島を体験した丸木夫妻と、東日本大震災直後に福島に向かったChim↑Pom。一見相反するような両者の作品が、時と場所を超え、1つの空間に並んだことは、想像していた以上の力強さを生み出しました」

 

 これらの展覧会は、3.11の前から予定されていたものだった。しかし、丸木夫妻や岡村さんの願いもむなしく、福島の事故とつながってしまった。アートは社会を変えることができないのか? これは非常に難しい問いだが、1つ確実に言えるのは、あの日を境に私たちは“当事者”となってしまったということだ。Chim↑Pomの展示に多くの人が心を揺さぶられたように、今なら、ダイレクトに人々の内面に働きかけることができるのかもしれない。私たちはもう、傍観者ではいられない。

 

夫妻の悲願、太陽光発電復活へ

 今年5月5日。国内すべての原子力発電所が停止したその日、丸木美術館は、市民共同太陽光発電基金への協力の呼びかけを発表した。美術館の電力を自然エネルギーでまかない、脱原発の意思を示そうというこのプロジェクトは、丸木夫妻の悲願でもある。

 

チェルノブイリ原発事故の頃、俊さんが描いた「原発やめよ 命が大事」の横断幕
チェルノブイリ原発事故の頃、俊さんが描いた「原発やめよ 命が大事」の横断幕

 1989年1月、東京電力福島第二原発で再循環ポンプの破損事故が発生した。これをきっかけに丸木夫妻は、東京電力に対して、当時の電力に占める原発の割合、24%分の電気料金の支払いを拒否する。集金に訪れた東電社員に対し、夫妻は、「水力発電と火力発電の分は支払う」と答えたという。両者の主張は平行線をたどり、業を煮やした東電側は、美術館への送電を1年以上にわたって停止した。当初は自家発電機で対抗していた丸木美術館だったが、その後、全国から集められた寄付金により、1990年8月、太陽光発電をスタートさせた。

 

美術館の屋根に設置された太陽光パネル (写真提供:丸木美術館)
美術館の屋根に設置された太陽光パネル (写真提供:丸木美術館)

「ただし当時は太陽光発電の黎明期。太陽光パネルの価格もまだまだ高価で、発電効率も低かったため、一部の部屋の光を照らすのが精一杯でした。また故障も多く、メンテナンスコストがかさむことから、数年前には運用を断念せざるをえなくなりました」

 

 太陽光発電の中止は苦渋の決断だった。しかし思いとは裏腹に、財政難で存続そのものが危ぶまれていた館にとって、太陽光発電を続ける余力はなかった。

 

「しかし3.11が起き、脱原発を望む多くの市民が立ち上がり始めました。我々もこうした動きに賛同するとともに、丸木美術館ができる具体的なアクションとして出した答えが、太陽光発電の復活でした。依然として財政が厳しいことには変わりませんが、やるなら今のタイミングしかないと決意しました」

 

館内に掲示された募金者の名前。918名(団体含む)から約800万円が集まった
館内に掲示された募金者の名前。918名(団体含む)から約800万円が集まった

 市民共同発電所の建設資金は寄付や出資などで集めるのが一般的だ。丸木美術館では寄付型を採用。広く市民からの参加を呼びかけようと、個人は一口1000円、企業・団体は一口5000円という低めの金額を設定した。ところがいざフタを開けてみると、募金は続々と集まり、6月には目標額である600万円を達成。その資金によって、美術館の屋根に取り付けられた13.5kWの太陽光パネルは8月3日より稼働を始め、現在、同館の消費電力以上の電力を作り出している。

 

 市民共同発電は、7月よりスタートした固定価格買い取り制度のもとで、埼玉県内第1号の設備認定を受けた。今後は売電収入と基金の残りで、初代の設備と蓄電池を復活させ、館内の全電力の自給自足を視野に入れている。

 

「福島の原発事故は、日本の有史以来初めて、人が住めない場所を生み出してしまいました。日々、放射線の影響におびえながら暮らさなければならない人がいる一方で、都市の人たちは初めから原発に近づくことさえありませんでした。二度とこのような事故を起こしてはなりませんが、すでに生み出されてしまった放射性廃棄物は、未来の世代に大きなツケを残しています。もう、他人の命を質(しち)に入れるような、アンフェアなエネルギーに頼る暮らしはもうやめませんか。『じゃあ江戸時代の生活に戻るのか』と反論する人がいますが、後退か、成長かという二極論はまったく不毛です。そうではなくて、時代とともに生活のスタイルや文明のあり方は変化するわけで、人々がよりフェアに生きていける新たな道を、一人ひとりが学び、考え、模索する。それこそが重要なんじゃないでしょうか。そしてそれを選択できるのは、今を生きる私たちしかいません」

 

 写真家の本橋成一さんが、晩年の丸木夫妻を撮った『ふたりの画家』という写真録がある。そこに写されているのは、絵を描き、畑を作り、魚をとり、動物とたわむれ、食事をし、酒を飲む、ふたりの画家の日常。つつましくも豊かに、自然と共生する人間本来の暮らしだ。それに対して、現代社会、特に都市部の生活は、自然からすっかり切り離されてしまった。そこに自然や命のつながりは一切見えない。人は自分だけで生きているのではなく、森羅万象のつながりのなかで生かされている――。利便性や効率ばかりを追求するあまり、私たちはそんな当たり前のことを忘れてしまったのではないか。ふたりの画家の姿を見て、ふとそんな気がした。

原爆の図丸木美術館

http://www.aya.or.jp/~marukimsn/

 

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