人生の最後の時に、大好きな歌を届ける

音楽家でもあり、また宮城県栗原市の造り酒屋「はさまや酒造店」12代目でもあるかの香織さんが、今年3月に一般財団法人オーバーザレインボウ基金を設立した。

終末期医療の患者さんに最後に聞きたい曲を届けに行こうという「ワンソングプロジェクト」に取り組む予定だ。

この活動には、これまでの音楽家としての活動や東日本大震災後の子ども支援の取り組み、酒造りの勉強と経験の中で生まれた、さまざまな縁・繋がりや思いが込められている。

かの 香織 (かの かおり)

音楽家、作詞作曲家、歌手、音楽プロデューサー
宮城県出身
一般財団法人オーバー ザ レインボウ基金 創設者
一般社団法人みやぎびっきの会 理事
宮城県 みやぎ絆大使
栗原市 栗原ドリームアンバサダー 

1757年創業醸造元はさまや酒造店12代目当主として日本酒造りに関わる。1991年ポップス界デビュー。国内外の音楽家との共演、録音など経験を重ね、現在まで18枚のアルバム作品を発表。CM音楽や映画主題歌、アニメ音楽など創作活動多数。NHK復興支援ソング「花は咲く」に参加。支援活動が実り2016年、復興地子ども支援、自然環境運動、音楽ファシリテーター養成を基軸とした一般財団法人オーバー ザ レインボウ基金設立。

取材・文/大川原通之

写真/小林伸司

「感覚器官の中で、聴覚は最後まで残る」

オーバーザレインボウ基金の活動の柱は、「音楽・文化・医療」「青少年国際交流」「自然環境」――の3つ。

そのなかでも、「音楽・文化・医療」の活動として取り組む「ワンソングプロジェクト」を構想したことが、そもそもの同基金設立のきっかけだった。

かのさんは2010年5月に最愛のお母様を亡くされた。

数年にわたる介護のなかで、終末期医療の現場を目の当たりにする。

その中で、ドクターから「人間の感覚器官では聴覚が最後まで残っていて、心拍が止まった後も若干遅れてスッと残って終わることもある」という説を聞かされる。  

「その話を聞き、感動せずにはいられませんでした」と、かのさん。

 

「私は音楽がとっても好きで、この仕事を選んで曲を書いたり詞を書いたりさせてもらっている。生業という発想ではない世界じゃないですか、クリエイティブの世界って。もちろんそれがギャラになればありがたいし、でもならなくても質や意味、学びがあれば良いわけで、それは自分のいのちと同じ意味を持っているとも言えると思うんです。それがドクターから『最後まで聴覚は残っているんですよ』と聞いて。だとしたら、音楽家である自分に何が出来るだろうか、と思うようになりました」

 

例えば、老人ホームや高齢者向けデイサービスセンターなどでは、機能回復訓練として、「むすんでひらいて」などの手遊び歌をするのが定番だ。音楽としてとらえた場合、もちろんこうした童謡を喜ぶお年寄りもいるだろう。

 

 

しかし、本当に聞きたい音楽は、ある人は民謡かもしれないし、ある人はバッハかもしれないし、ある人は石原裕次郎かもしれないし、ピンクレディーかも知れない。

 

「その人にはその人の歌があると思う。終末期でもしも食べる事もままならないんだったら、せめて最後に自分が大好きだったあの曲をもう一度、という思いを支えられたら。」

 

〝自分のあの曲〟を届ける人はもちろんきちんとした音楽的な技量が求められるし、同時にターミナルケアに関する知識・技術も必要だ。

そうした人材を「ワンソングプロジェクト」では育てていく計画だが、具体的な中身はまだ少しずつ進めているところ。

音楽療法としてはすでに確立されたものがあるが、かのさんが東日本大震災後に行っていた子どもの心のケアの活動を通して地元の東北福祉大学や宮城学院大学の臨床心理や児童心理のケアの先生方とのネットワークができたことから、一緒に教科書作りをしようと準備中だ。

「今ある音楽療法とは別に、もっとミュージシャンならではの、とっつきやすい視点、学問じゃない視点で東北の特に宮城の心のケアで頑張っている現場の方々と新規でつくっていきたい」という。

 

 

かのさんは、自分を〝耳の人〟だと表現する。

 

「小さい頃からこの音を聞くと泣いちゃったりとか、この音を聞くと何か食べたくなったりとか、自分の行動が音で決まっていたパターンがある。楽器の音を聞くとその音を初めて聞いたときの会話までよみがえってくる。はじめてモーツァルトを聞いたピアノ教室の縁側の太陽の位置だったり、おばちゃんが淹れてくれた紅茶の味だったり、全部連れてこられる。だからこそ音楽家になったと思うし、自分にとって人生が彩り豊かになるようなありがたい運命だったと思う。じゃあどうやってお返しするのというところに尽きてしまった」

 

かのさんは、お母様が亡くなる前、枕元でお母様が大好きだった歌を歌ってあげることが出来たという。「母が亡くなるまでは、こうしたお返しなんて考えてもいなかった」と語る。

他を思いやる心が酒造りのすべての基礎

かのさんの実家は宮城県栗原市にある1757年(宝暦7年)創業の造り酒屋。現在、この醸造元はさまや酒造店12代目当主でもある。

かのさんの音に対する感性も、幼い頃、仕込歌が酒蔵からいつも流れてくる環境で育まれた。かのさんがお母様の介護で大変な時期、その酒蔵も経営が厳しい状態だった。

かのさんは一人っ子で、お父様はかのさんが20代の時に亡くなられている。

 

「もうこれ無くなるんだよって言われたときに、『無くすわけにいくもんか』って」

かつては古臭くて嫌だなって思った日本酒の世界を継承することを決断する。

 

「うちは規模は小さいですし、私が継ごうという頃にはもっと小さくなっていたので、どうせ全部廃業して国に免許を返すよりはこの大きさなら勉強しながらやれるかなという規模だったので。人生勉強も含めて」

 

音楽家として長年活動してきたかのさん。それまで実家を継がなければと考える事は無かったのだろうか。

 

「そもそも、酒蔵は古い日本の文化でしたので、女の子の一人っ子だということで、番頭さんもはじめ周りの人は『うちはこの代でお終い』って思ったんじゃないかと思います(笑)」

 

 

しかし、時代も味方してくれた。

 

例えばドラマ化もされた漫画『夏子の酒』のヒットなどを経て、日本酒の業界自体が女性に優しくなった。

 

「子どもの頃は『入るな!』って怒られていた女人禁制の場所がたくさんあったんですが、良い酒が造れるなら、美味しいお酒をもっと高めていきたいから『それには女性でも、みんなで勉強しましょう』という時代に入っていったので、そこに上手く合って。日本酒はもともと巫女さんが造っていたとも言われているそうで、どうやらお酒の神様に無礼を働いているわけではないらしいです(笑)」

 

とはいえ、小さい頃から実家の手伝いで酒造りの様子は分かってはいたものの、専門的な醸造ともなれば一からの修行。知り合いの酒蔵の杜氏のもとで勉強が始まった。

同時に、資金繰りなどで頭を下げて回り、お母様の介護もしなければならない。

たった一人で毎日大きい決断を強いられ、身体も壊し、過呼吸で自分が入院しなければならなくなったほどだった。

 

酒蔵のことで床におでこを付けるぐらい謝罪する場面もあったが、それをきっかけに先方と仲良くなったことも。「苦しい場面でも『ププっ』って笑っちゃう場面を作ってくれる優しい人たちにたくさん助けられました」

さまざまな出会いがあった。酒造りを通して「他を見る、他を思うという精神をどんどんメキメキ修得していった」。と実感している。

 

 

「他を思いやる心が日本酒造りのすべての基礎になっていますから」と、かのさん。

 

「『自分一人でやれていると思いなさんな』と日本酒造りの職人さんから怒られるところからスタートでした。勉強は怒られてばっかりで。でも本当に魂が入れ替わりました。本当に今までのダメな自分が次々と浮かび上がってきちゃって」

 

音楽家としての仕事に加え、介護、酒造りの勉強、酒蔵の経営・・・。

 

「そのふり幅の広さに触れることが出来て、自分の運命が一気に極彩色の素晴らしい色彩の世界に早変わりしました。そのぐらいのテンションに触れた時に、私は音楽が素晴らしく聞こえてくる世界に初めて触れたと思った。自分の酒蔵で250年以上続いた習わしがあって、日本の古い伝統文化を小さい時からみっちり教えられてきた精神と場所がある。音楽があって仲間がいて、大変な時に助けてくれる面白い楽しい素敵な人たちと出会い、病院という現場も見て、それらを全部集約するとオーバーザレインボウの貢献活動になっていくんです」

 

オーバーザレインボウ基金の活動の柱の一つ「自然環境」の取り組みは、酒蔵の仕事と深く関わる。栗原市のはさまや酒造店がある場所は「泉がどんどん湧き出ているところだから造り酒屋を江戸時代に構えたんですけれども、泉が湧いてこなくなった」のだそうだ。たび重なる大地震による地盤沈下や隆起、地割れの影響もあるかもしれない。水脈も変わる。森林の崩壊や、地球温暖化による自然破壊の影響もあるだろう。だからこそ、地元で環境保全に取り組んでいる団体や個人と連携した取り組みも広げていきたいと考えている。

みやぎ びっきの会で復興県の子どもをハワイに

こうして、お母様の介護や酒造りの勉強を続けるなかで、かのさんはワンソングプロジェクトを少しずつ温めはじめる。

 そしてもう一つ、地元宮城県を中心に活動する〝みやぎ びっきの会〟で、子どもたちの音楽活動を支援する取り組みに2006年から参加する。

 

 

 みやぎ びっきの会は、さとう宗幸さんや稲垣潤一さんなど、宮城県出身やゆかりのある音楽家や文化人が集まって2005年からスタートした。学校現場では楽器が壊れても修理する予算がなく、吹奏楽部の活動がそのまま停滞してしまう例が少なくない。

そこで、みやぎ びっきの会がチャリティーコンサートを開催し、その収益金で地元の子どもたちが吹奏楽部で使う楽器の修理などの支援を行ってきた。

 

そして、2011年東日本大震災。みやぎ びっきの会は活動範囲を宮城県だけでなく、岩手県、福島県に拡大。基金を創設し「かえるのおとプロジェクト」として、津波で壊れた楽器の修理や滅失した楽器の購入などの取り組みを積極的に行っている。

さらに、子ども支援の活動として地元の大学の専門家やNPO、自治体などと連携し、音楽、芸術、スポーツなどの分野での支援活動を展開。学習支援活動をしているNPOを通じて、被災して生活に困窮している家庭向けの食料物資提供や奨学支援金等の取り組みも続けている。

 

 「みやぎ びっきの会は、ほとんどみんな年上の大先輩ばかりで、エンターテイメントの世界にありがちな損得勘定を度外視し、ひたむきに走っていく精神に、震災の時は教えてもらうことが本当に多かった」。こうした活動に携わる中で、支援活動というものの中身も学び、オーバーザレインボウの礎のひとつになっているという。

 

 

 みやぎ びっきの会では2011年から、復興県の子どもたちを自然豊かな癒しの島ハワイで教育合宿する「ハワイ レインボーキッズ プロジェクト」を開催している。

未来を担う子どもたちを、自然豊かな癒しの島ハワイに招き、自然や文化などに触れ、ハワイの子どもたちと交流することで夢や希望を持ち、未来に向かって力強く歩いて行ってもらいたいと願っての企画。

 

ハワイの主催団体、Rainbow for Japan Kidsの大きな支援を受け、子どもたちはハワイの楽器工場で自分たちで手作りしたウクレレを弾いたり、天文台での星座の学習やコーヒー農園での農業体験、ドルフィン大学、ビーチ清掃ボランティアなど、さまざまなことを経験している。

 

 そもそも、なぜハワイと繋げることになったかといえば、実は酒造りと深くかかわっている。

 

当時、かのさんはハワイでも自分の日本酒を普及させようと、ハワイと日本を行き来していた。

ところが、地元のシェフと交流を持ちはじめて半年後に東日本大震災が発生。かのさんはハワイのチャリティーイベントで歌を歌うとともに東北の惨状を伝えたところ、現地でも報道されたことをきっかけに、様々なつながりができて、多くの企業・団体・個人、ミュージシャンの支援を得てハワイ レインボーキッズ プロジェクトへとつながっている。

 

 

 

そしてハワイでのイベントでかのさんが歌った曲が『Over The Rainbow』だった(ちなみに、かのさんが歌う「Over The Rainbow」は、雑誌「Lingkaran(リンカラン)」とコラボレーションした童謡カヴァーコンピレーションアルバム『Lingkaran for Baby』にも収録されている)。

 

 

偶然にもハワイは車のナンバープレートに虹が描かれているような虹の街。オーバーザレインボウ基金の名称は、こうした縁の重なりにルーツがある。

 

「ハワイ レインボーキッズ プロジェクト」は2016年8月で10回目を数える。そして第一回目に参加した子どもたちからは、サンフランシスコやハワイ大学に入学することになったという連絡も聴かれるようになった。もちろん復興県の子どもたちへの様々なサポートがあってのことだろう。だが、看護師を目指していた子が国際医療派遣に関わることも考え始めたり、水産高校に入学した子が地元の水産工場とコラボしてオリジナルの商品を作るなど、ハワイでの経験をきっかけに、もう一歩未来に踏み出しはじめた子どもたちも少なくないようだ。

 

 「そういう子どもたちから連絡を貰うとやって良かったな、無駄じゃなかったとあらためて思います。『ハワイに旅行に行って良かった良かった』と言うだけの子どもたちだったら、私もこんなに続けていません」

 

コアロハ・ウクレレ工場の前で工場の皆さんと集合写真
コアロハ・ウクレレ工場の前で工場の皆さんと集合写真

 多くの子どもたちが様々な経験をし、未来への第一歩のきっかけとなったこれまでの「ハワイ レインボーキッズ プロジェクト」は当初の目的を達成したということで10回目を持って終了する予定だが、かのさんはオーバーザレインボウ基金の柱の一つ「青少年国際交流」に位置付けて、なんとか継続していきたい考えだ。

 

 ハワイで子どもたちは、ハワイアンミュージックには欠かせない楽器ウクレレの製作にも取り組んでいるが、実はワンソングプロジェクトでも演奏するメインの楽器としてもウクレレを考えている。

プロジェクトで育った音楽セラピストは色んなところへ行くことになるだろうが、ピアノは背負えないし、エレクトーンは電気が無い場所では使えない。

 

「大好きだった林まで行って、そこで弾いて欲しいという場面があっても大丈夫なように。ギターかな、でもウクレレだったらもっと気軽に持っていけるよねって」

 

 さらに、プロジェクトで使うウクレレも自分たちで作りたいという思いもある。ハワイではウクレレにはコアの木を使う。子ども支援に協力してくれているハワイのウクレレ工場で話を聞く中で、「ハワイらしいウクレレの音ということでいえばコアの木が一番かもしれないけれど、その国の木で適しているものを突き詰めていけばいいのではないか」と考えるようになった。できれば木を育てるところから取り組みたいと希望している。戦後植林された日本の森林は今日、伐採適齢期を迎えており、また森林保全のための間伐材の利用も進められている。こうした流れとコラボしたウクレレ製作も期待できそうだ。

色んなものがつながり、その縁を大事にするとまた次につながる

 不思議と色んなものがつながり、その縁を大事にするとまた次につながる。その先に、オーバーザレインボウがつながって行く。まるで波紋のように円を描いて広がって行く音の響き、音楽のように。

 

「私が酒蔵に生まれていなかったら、このご縁というところに反応しなかったと思います。日本酒の世界の縁を繋いでいって必ずお返し、恩返しをするいう精神。日本酒造りを通じて縁と言うものを改めて知ることになり、助けられて、生かされて、やっぱり縁ですべてが成り立っているかもしれないと思うと、お返しせずには気が済まなくなっちゃって(笑)」

 

将来的には、活動の一つとして、地元貢献型の商業施設・複合施設なども、できたらいいなといった構想があるそうだ。

 

「造り酒屋のおかみさんの気丈な性質のDNAがあるので、それを力に変えて徹底的にやろうと思っています。気を抜くとピンボケしてしまうから強い気持ちで行かないと。たすき掛けしたおかみさんの器量の見せ所ですから」

 

かの香織WEBサイト:http://www.caolina.net

 

オーバーザレインボウ基金WEBサイト:http://www.orf.jp

 

みやぎ びっきの会WEBサイト:http://bikkifund.net

 

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