命と向き合う、ある精肉店の物語

映画『ある精肉店のはなし』より
映画『ある精肉店のはなし』より

 すき焼き、ステーキ、ハンバーグ――、大人も子どもも、みんなが大好きなのが肉料理だ。 だがそのお肉、どのように私たちの食卓にのぼっているのだろう? キレイにパック詰めされ、ショーケースに整然と並ぶスーパーの肉を見て、それが少し前まで生きていた時の姿を考えることなどほとんどない。

 

 肉を食べるということは、命をいただいているということ。そのことに改めて気付かせてくれる映画がある。大阪府貝塚市で7代にわたって精肉店を営む一家の暮らしを追ったドキュメンタリー作品『ある精肉店のはなし』が、いま全国各地で順次公開中だ。

 

 作品の舞台となる北出精肉店では、牛の飼養から、食肉処理、そして販売まで、精肉にまつわるすべての工程を家族の手で行っている。映画では一般的にはタブー視されがちな、と畜についても、その作業の一部始終が映像に収められている。

 

 包丁一本で牛が解体されていくその様は見事で、残酷と感じるどころか、むしろ神々しく思えるほど。そこには、命に対する敬意と、それを扱う仕事への重み・誇りを胸に、食べ物を生み出している一家の姿があった。こうした作業のうえに、私たちの食は成り立っていることを忘れてはならない。そして、命に感謝しているからこそ、すべての部位は大切に扱われる。さばいた肉と内臓は食材に、皮はていねいになめされ、祭りの太鼓として生まれ変わる。

 

 一方で、と畜に携わる人々は、いわれのない差別や偏見にさらされてきた。北出精肉店のある地区でも例外ではない。やがて一家は差別のない社会にしようと、仲間とともに部落解放運動に参加。差別に対する家族や周囲の意識は次第に変わっていく。北出家の長男・新司さんが語った、「自分たちの仕事は、子どもの頃から自然に倣い覚えたことで、何も特別なものではない。暮らしの一部だ」という言葉が印象的だ。私たちは、殺めた命をいただいているという事実に向き合うことを避けてきた。その結果、勝手に作り上げたイメージや特別視といったものが、この仕事への差別を生みだしている。

 

 冒頭のと畜のシーンで思わずスクリーンから目を背けてしまった人も、物語が進むに従い、その営みを受け止められるようになることだろう。北出家の人たちの日常には、命や仕事、さらには家族、先祖、地域への感謝や尊敬、温かさで満ちているからだ。「いただきます」とは命をいただくということ――。牛が肉へと変わる神聖な儀式の瞬間を捉えた同作品は、命の交換の記録でもある。

 

ある精肉店のはなし

http://www.seinikuten-eiga.com/

単行本

『うちは精肉店』(農文協)

 

 

文/加藤 聡

 

 

コメント: 1 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    久保優子 (火曜日, 11 2月 2014)

    映画は見ていません。でも、さばく作業が神々しいというのは非常に違和感を覚えます。
    確かに、命をいただくのなら、感謝し、無駄なく、上記に書かれているようにあるべきだろうと思います。しかし、そもそもなぜ動物を殺すのか。食料のためであれば、不要です。動物性タンパク質をとらなくても、人間は生きていけることが科学的に証明されています。これまでのしがらみをいったん離れ、広い視野で考えてみる必要があると思います。

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