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大崎町リサイクル現場レポート (2022年10月20日〜21日)

★10月20日、鹿児島県大崎町へ初めて降り立った。

到着すると、東京よりも強い日差しの太陽が迎えてくれた。

 

 

今回、エコロジーオンラインのボスからのミッションは2つあった。

・リサイクル率日本一14回の大崎町の現場を取材してくること。

・この大崎町の素晴らしい取り組みを広めるための絵本を作ること。

まずはスムーズに現地取材をするために鹿児島空港でレンタカーを借りる。

そして、1時間かけてSDGs推進協議会の立花さんとの待ち合わせ場所の道の駅「野方あらさの」に向かう。(立花さんには2日間、自分なんかをアテンドをして頂く)

 

とはいえ、集合場所に早く着きすぎた自分は、国連広報センターのYouTubeでも

紹介されていた場所に行きたくなり、急遽、予定のない海亀の産卵でも有名な

海沿いの「くにの松原」に向かった。

まずは、集合時間まで時間の余裕もあったので大自然の猛威から大崎町の町や農地を守る「くにの松原」へ

 

大崎町にある浜辺に広がる松林は全長7kmの広大な防風林。

圧巻の景色に松の偉大さを感じる。

松林に感動している中、ふと時計を見ると…「あぁぁぁ、やばい!集合時間が!」

すぐに車に乗り込み高速に乗って猛ダッシュで車を飛ばす(もちろん制限速度内で)

ラジオが付いていない車だったので、スマホに入っているジャックジョンソンやCCRを

大音量で流しながら、鹿児島の風を感じながら車で走る時間はとても幸福な時間だった。

無事、立花さんと合流し、ご挨拶を済ませてから、

早速、リサイクルが行われている現地の見学が始まった。

★まず一番最初に向かったのは、1990年に新しくできた埋立処分場。

大崎町13,000人と志布志市の30,000人のごみが辿り着く。

ただここは、2004年を待たずしてごみで埋まるはずだったのだが持ち込むごみを減らして、長く埋立処分場が使えるように行政、企業そして

住民の努力で、27品目のごみの分別により80%以上の資源リサイクルの実現。

家庭から出るごみの量が減少して、あと40年使用できる埋立処分場となった。

 

左側の写真は、ダムのような埋立処分場の全体像だが、

まだ40年分の余裕が残っている。

そして現地に降り立つと、右側の写真は、

アテンドの立花さんが見た1年前のごみの山よりも

だいぶ目の前までごみの山が迫ってきているとの事。

そして、、、その足元の下には、ごみが30mも埋まっており、

30年分のごみの歴史で、ごみの地層になっているとの事。

驚いたのは、なぜか清潔感すら感じてしまう埋立処分場だという事。

なぜならば、生ごみなど匂いの出るごみは再利用されるため、ここに

捨てられることはない。ここは、匂いがなくカラスも虫も飛んでいない。

広大な敷地の中に敷き詰められたごみの山は、自分たちの日常から出るごみの山。

まさにごみを捨てた後のことを考えずに生活してきたが、ごみがここにたどり着き

やがて満杯になってしまう事実を知ると、確実にごみへの考え方が変わる気がした。

この場所は、誰もが一度見にくるべき場所だと思った。

自分たちが何気なく出しているごみがどこへ行きどうなるのか、、、

ごみを出す責任をしっかり持つことで生活の仕方が変わることを実感した。

★次に向かったのは、大崎有機工場の見学である。

 

倒木した丸太などが集められて、丸太を粉砕したり木えだを細かくする重機。

週3回、生ごみは街に置いてある左のバケツに集められる。

バケツの底には、生ごみの水分を吸うおがくずも入っている。

生ごみが入ったバケツたちは、先ほどの細かく粉砕された草木とともに混ぜこぜにされる。。。

 

 

右の写真の機械で生ごみと草木が混ぜられると、、、

左のような状態となって、かなり堆肥の状態に近づく。

 

左の写真は、マフィアのアジトのような、、、映画のセットのような、、、場所で微生物たちによる発酵が、4~5ヶ月間行われ、堆肥の温度が上がると湯気が上がる。

 

ここにストックされた堆肥は4〜5ヶ月かけて発酵されていき、左の写真は完成間近のもの。

右の写真は、ようやく完成した堆肥。商品名は「おかえり環ちゃん」。

 

次に街のごみ捨て場に驚きのものが、、、今、試験段階だがユニ・チャームと大崎町、志布志市が実施する、紙おむつのリサイクルの実証実験のため、専用回収ボックスが置かれていた。

★次に向かったのは、そおリサイクルセンターの見学である。

 

作業の工程はまず左の写真回収トラックが2Fに行きプラ缶びんを細かく選別し、1Fで圧縮して資源化し買取業者へ

 

発泡スチロールは、左の写真の機械で圧縮して、右の写真のかたまりにして買取業者へ

 

左の写真の建物では、雑金属という鍋など取っ手のプラスチックを手作業で取り除き資源として買取業者へ

 

★そして次は、そおリサイクルセンターの宮地社長へのインタビュー

 

24年前、平成10年(1998年)今の志布志市の市長の下平さんが志布志市役所にいた時代に突然、下平さんから会社に電話がかかって来て、その日から宮地社長は毎日呼び出されて、下平さんの夢の話、将来実現したいごみの分別やリサイクルの話をされていた。

志布志町では、2000年に分別を開始し、19品目のごみの分別がスタートする。

同時に生ごみも堆肥にしませんか?と宮地社長から提案。

平成12年(2000年)から志布志市の一部集落では生ごみ回収が始まる。

平成16年(2004年)から生ごみ回収を全域でスタートする。

生ごみ分別と資源ごみ27品目に一気に増やす。

その後、下平さんは志布志市の市議会議員となる。

大崎町では平成12年(2000年)に大崎町役場の徳禮さんが志布志市の下平さんと協力しながら、大崎町の陣頭指揮を執ってごみの改革を始める。

平成16年(2004年)から生ごみ回収を全町でスタートする。

徳禮さんにも宮地社長は毎日呼び出され、ごみの分別やリサイクルの話をされている。

下平さんが市議会議員となった後は、大崎町の徳禮さんが大崎町や志布志市周辺のごみ分別を引っ張っていくことになる。

大崎町役場では、徳禮さんに続き、次世代にDNAが引き継がれていき、資源リサイクル日本一を14回も獲得する注目の街となっている。

常に下平さんに宮地社長は「君は何ができるか?」と聞かれ、どんな品目でも再利用できるような仕組みを構築していった。

下平さんと徳禮さんは「誰かのために仕事をすること、住民のためにできること」をいつも考えていた。

民間の自分には、考えてもいなかった、そういった精神を学ばせてもらった。

と宮地社長は言う。

「誰かのために仕事ができることが喜び」ということを教えてもらった。

「地球環境のためとはいえ面倒なことをお願いし、引き受けてもらえる公務員って尊いんだなぁ」と思ったと。

結局、下平さんと徳禮さんがやってきたこととは街づくり、コミュニティ作りだった。

下平さんと徳禮さんと出会えなかったら今はない…とても貴重な出会いだった…。

徳禮さんは現在、大崎町がJICAと組んで展開している、インドネシアの技術支援事業のプロジェクトマネージャーを務めている。

◉大崎町が今の資源リサイクル日本一となるより前から、大崎町の中心でこの素晴らしい取り組みをゼロイチで作ってきたレジェンドたちの話は1本の映画を観ているようだった。

宮地社長は、いつまでも恩人に対する尊敬と感謝を忘れない真っ直ぐな人だった。

名刺のスローガンは、「美しい地球を次の世代に…」。

当たり前にごみの分別をしている大崎町の子供たちが今やっていることを認めてもらえる絵本があると良いと答えてくれた。

食用油は料理に使用後、回収容器に → 収集場へ集められ、不純物が取り除かれる→リサイクルセンターへ→廃油精製装置に入れると、、、地球にやさしいリサイクル燃料に…(ごみ収集車やフォークリフトに使用中)

 

★そして初日の最後は、大崎町役場の住民環境課 松元課長へのインタビュー

 

大崎町役場の住民環境課長の松元さんは、初代担当者だった徳禮さんがごみの改革を始めた当時の話から今回の取材は始まった。

16品目のごみの分別の開始当時、住民への理解を広める作業が一番苦労されたとのこと。

最初の頃の説明会は、家庭内でごみの処理をほとんどやっていなかった住民男性の多くが参加していたので「なんで大崎町だけやらないかん?」と言った怒号がたくさん飛んでいたが、毎日ごみの処理をしていた主婦の多くが参加す

るようになると「どうやってやればいいのか?」といった前向きな意見ばかりが聞かれるようになった。

 

「住民の方が集まりやすい時間帯にお話に伺います!」と

 

言うやり方で夜の7時だろうが、9時だろうが、朝の6時半だろうが話をしに行っていた。

昔も今もそのやり方で説明会を開いていたのは、徳禮さんだけだった。

そう言うところの感覚っていうのが、徳禮さんの凄いところだった。

それで行動力があるもんだから、役場の人間は全員ごみの分別について住民から聞かれるから完璧に答えられるように何度も研修会が開かれていた。

勉強したら、1人ずつどこどこの集落を割り当てますから最初の3ヶ月は、住民の皆さんにごみの分別に関する質問に答えてあげてください!

という指示が出された。

すると住民の方々から「役場のあなたたち大変ね、、、あなたたちが頑張ってるから、わたしたちも頑張らんといかんね、、、」と声をかけられるようになった。

そう言うふうに徳禮さんがもっていったのは凄い。。。

今も思っているのは「担当になって知れば知るほど、よく出来ているシステムだなぁ…」って思う。だからどんどん凄い凄いと思って色々学んで、知識が増えれば増えるほど喋ることも増えてきて、喋り出すと止まらなくなってしまう。

だから時間内では納まらない。

だからみんなに迷惑かける。。。それぐらい凄いことになっているなぁ…と。

今の大崎町を見て、どんなことを思い、これから何を目指すか?の問いに松元課長は、ここまでトンガってきた街。

環境大臣賞を獲得し、次にSDGsアワードも獲得。

(今まではインドネシアで技術支援事業や中国での講演などしたが)そこには常に住民の皆さんが主役でいて、住民の皆さんが何十年とやってきたことが評価されて非常に嬉しい。

次のステップは、大崎町の考え方が世界中の人たちに広まり、地球がちょっとでも長持ちするようになったらなと考えてますね。

絵本で大崎町のことを世界に広めて欲しいね!小学生は、環境教育という教科でリサイクルについて勉強してます。

でも小学生になる前の年齢層へアプローチするものが今はない。

そこにアプローチするのは絵本かなと前から役場では話が出ていた。

特にお母さんが読み聞かせしたくなる、子供たちも参加できる参加学習の絵本があると素晴らしい。お母さんたちは、子供に悪いことは絶対に教えない。

一緒に学べる絵本が一番いい。

まだまだ濃い内容の話は尽きない夜だったのですが、全体のバランスの関係で、、、汗。

◉松元課長は、情熱的でいつまでもお喋りが止まらないユーモアたっぷりの人だった。

(写真はお店の正面玄関。これで、ノンアルビールしか飲んでいない、シラフ状態です)

 

★2日目、衛生自治会 萩原会長へのインタビュー

 

衛生自治会とは、各集落(集落数:約150)のごみステーションごとにある住民の組織であり、そこには集落の代表がいて、その代表の中でも全集落の衛生自治会を代表する理事が20名いる地域コミュニティ組織である。

その組織をまとめているのが萩原会長である。

萩原さんは衛生自治会の3代目の会長だ。

初代は、資源ごみを27品目の分別をゼロイチから始めて定着させるまで頑張った。

そして、ようやく安定し国からも県からも評価を受けてきた時代があった。

今はその次の段階にきている…ごみそのものを捨てることのない時代にしたい!

次は、共生の時代となり、大崎町も若い世代がみんないなくなり、高齢化社会の中でアジアから若い研修生たちがたくさん働きに来ている。

これからは共生していく中で外国から来た方々も気持ちよく暮らせる、生活していける環境作りをしていきたい!

高齢者の1人暮らしが増えてくると、みんなで助け合うことが必要になってくる。

ごみを出せない人も出てくるだろうし、みんなで助けあえる社会を構築していきます。

今、外国人の方々が異国での生活で、生活雑貨や生活必需品で困っている時に、住民の使わなくなった中古品を集めて、リユースできる環境作りをすれば、誰にとっても幸せな助け合いをすることができる。

人間関係を作るための社会を構築しないといけない。

今、お話しているこの場所は、「旧そうしん・おおさきマルシェ」の建物が地域コミュニティの為の施設「マルおおさき」として生まれ変わりました。

「マルおおさき」は、環境学習館と多文化共生の拠点として、今後、整備していきます。

自分も変わった。高齢者でも変われるんだ。みんなのためにやれることはまだまだある。

人のために動ける、そのことが最大の喜び。その波動を広めていきたい。

そのことが若い人との接点となる。飲みにいっても2割自分の話、8割若い人の話を聞く。

2:8くらいが一番良い。若い人がやりたい事をやる。楽しいこと、面白いこと、その実現に向けて何でも協力する。

そんな繋がりが大切。ゆるい繋がりを作る。そんな考え方を外まで広げていきたい。繋がりっていいもんだ!ということを知ってもらいたい。

最初にやるって決めた人がいたからやれた!さまざまな困難があった、でも誰が何を言っても、その人たちは絶対に引かなかった!徳禮さん…遠矢さん…その人たちがいたから今がある。

そのことに感謝している。自分達はさらにグレードアップしないといけない。

次の段階、大崎町の考え方をその他のエリア、日本全国、世界に向けて広めていきたい。

 

◉柔らかい口調でリーダーシップを発揮するカリスマ性のある萩原さん…「自分は、外からの評価で、自分の内面も変わっていった。世の中の環境はどんどん変わっていく。環境が変われば自分は変わる。いくつになっても変われるんだ、変化し続けるんだ!一生勉強」という柔軟な考えと、たくさんの学びや大切なことを教えてくれた偉大な人だった。

 

★衛生自治会理事 西迫集落 日高さんへのインタビュー

 

朝の生ごみ回収見学から、西迫集落の自治公民館へ移動し、衛生自治会理事をしながら自治公民館の館長も勤めている日高さんへのインタビューをさせていただいた。

今の役割は、西迫集落にある生ごみの回収場5ヶ所と資源ごみの回収場2ヶ所での仕分けや運搬、研修生(外国人)のお世話、高齢者の送り迎えや代わりにごみの運搬など日高さんは、衛生自治会の理事を12年もやっているが、もともとごみの分別すらなかった時代から、ごみ清掃業者として埋立処分場までごみ収集車を運転していた、まさに大崎町のごみの歴史を見続けてきた生き証人である。

昔、ごみの運搬をしていた時、一番キツかったのは、電化製品のごみが重かったこと。特に冷蔵庫の運搬は大変だった。

それからごみの分別は全くなく、真っ黒なごみ袋にすべてのごみを入れて捨てられていたので、たまに犬や猫の死骸が入っていたり、生きた鶏が入っていたり、、、粗大ごみの運搬が大変だった。

トラックの荷台の横から落ちたりする危険があった。

それからチャッカマンやライターからごみが燃えることもあり、そのままごみ収集車が燃えたこともあった。

前のごみ処理場は有明町にあって、とてつもなく臭い環境だった。

カラスとハエだらけの環境の中で、ごみを捨てにいくと白い車もハエがついてまっ黒になり、車を走らせれば、車についたハエが飛び散ったりして地域住民から文句を言われ、大変な環境だった。

ごみ処理場でも下で腐ってメタンガスが出るので火災になることがあって2年間燃えていた。

 

今は、公園や空き地を使ってグランドゴルフをやったり船釣りを楽しむ日高さん…三度の飯より釣りが好きで、後ろから叩かれても釣りに行きたいと言う。

 

◉物腰柔らかく、どこまでも謙虚な姿勢で、今も人のため町のために活動し続ける、心優しい懐の深い人だった。前に小学生たちがごみのおじちゃんと言って授業で書いてくれた作文集は「今でも大切な宝物です」と嬉しそうに教えてくれた…

 

★大崎町立大崎小学4年生5年生へのインタビュー

 

Q、大崎町の捨てたごみのリサイクル率日本一をどう感じていますか? どんな気持ちか教えてください

A、誇らしい!気持ちがいい!世界一が良かった!テレビで流れてて、そこで初めて知ってびっくりした!大崎町に住んでいて良かった!当たり前のことをしているだけだったから、びっくりした!

 

Q、おうちでの、ごみの取り扱い(家族のルール)について教えてください。あなたはどれくらい関わっていますか? おうちでどんなことをしてるか教えてください。工夫してること(裏技)はありますか? 特に他の人にオススメしたやりかたがあれば教えてください。

A、最初は全部一緒に捨てていたけど、お母さんがその後、分別しているのを見て自分は間違っていることに気づき、分別するようになった。アイスの棒も洗っている。小さく紙をちぎって捨てる。ごみの分別が多いため、分別されたごみ箱を増やしている(5個~6個)。

 

Q、家庭内で楽しめていることはありますか? ある場合はどんなことか教えてください!

A、アイスの当たり用ごみ箱と、はずれ用のごみ箱に分けて、今日はどっちに入れるか楽しんでいる。ごみを捨てる時、どの分別で捨てるのか?家族にクイズを出す。分別が大変だから楽しいと思ったことがない。分別が面倒くさい。

 

 

Q、おうちでごみを分別するとき、大変なことや、苦労していること、もっとこうしたらいいと思うことはありますか?

A、ごみ出しの日が少ないからごみがいっぱい溜まる。(資源ごみは月一回、埋立ごみは週一回)僕の部屋のごみ箱が小さくて、もう少しでいっぱいになっちゃう。鼻アレルギーだからごみが多いからごみ箱がいつもパンパン。僕の遊び道具のある場所に資源ごみのごみ袋をどんどん溜めていくから迷惑。リサイクル工場をもっと増やしてほしい。

 

Q、将来的、ごみの分別の経験をなにかに役立ててみたいですか?

A、地球上にある全部の国に広めたい。分別とリサイクルをずっと続けたい。今、自分たちでリサイクルしたごみから新しいおもちゃを作って他の子供たちにあげたい。将来、自分が就職とかした時に、経験したリサイクルのことを広めたい。

 

Q、この大崎町のリサイクルを広めるために、自分の経験したことを広めるために、どんな絵本があったら他県の同い年の子たちにも興味をもってもらえると思いますか?

A、海が好きな人だったら海のリサイクルの話を作れば、興味を持ってもらえると思う。笑いがある絵本がいい。題名でワクワクする本がいい。ヒカキンさんが出てくる本とか。

 

Q、ごみの分別が面倒くさいのに今もちゃんと続けているのはなぜ?

A、家をごみで汚くしたくないから。ごみの分別をやめたら世界全体が汚くなるから。日本一を外したくないから。汚くなると自分でも嫌だから。海の中でビニールとかがあったらウミガメとかが飲み

込んで死んじゃうかもしれないから。分別しないと家とかも汚くなる。地球に影響がある。僕たちがやらないと地球がダメになる。

 

Q、将来なりたいものは何ですか?大人になったら、やりたいことはありますか?

A、牛の獣医さんになりたいです。理由は、おじいちゃんおばあちゃんお父さんが牛を飼っているから。/野球の選手になりたい。理由は、お父さんも目指していたから。/バレーの選手になりたい。理由は、お父さんが全国大会とかに出ていたから。/清掃工場の人になりたい。理由は、お父さんが動物の飼育をしていて、ごみがあまりにもいっぱいあるから、それをどうにかしないと!って思っていて清掃工場で働いてそういうのをなくしていきたい。/「新しいカギ」という番組の中で、出演者がやっていた3階まで登ってジャンプしてトランポリンに飛び降りるのをやってみたい。/大人になったらバンジージャンプをしてみたい。理由は、身長が伸びるって噂があるから。/にっぽん百名山を登りたい。理由は、お父さんが好きな田中ゆうきって人がにっぽん百名山を登ったから。/お金持ちになって大きなお店を買ってみたい。/宇宙に行ってみたい。/

 

◉子供たちの素直な意見に笑いと関心の多い、素敵なインタビューとなりました。

 

★衛生自治会 専門部員 岡留さんへのインタビュー

 

集落での役割は、民生委員と衛生自治会をやっていて、主婦の目線で少し意見をする立場です。

生まれは兵庫県で鹿児島に来て42年になります。どっちかと言うと…関西人だからお節介な人間なんです。

今はがっつりと鹿児島人、大崎人です。

ごみの分別が始まる前は、外から来た人間同士が気が合って、ボランティア活動でごみ拾いをしていた。

徳禮さんが同じ集落だったものですから、直接、徳禮さんから勉強ができていたので結果的に意識高くできた流れがあった。もちろん最初は迷っていたし、ごみはそれぞれ会社が回収するもんじゃないのか?と思っていた。

主人と共に公民館に行って何度も説明会に行って学んだ。

集落の人が頑張っているんだから、応援しようという思いもあった。

主人が公民館館長になったので、その流れで衛生自治会の人間になった。

長い年月をかけて、みんな何も考えずにやってきただけ。

なのに今はリサイクル率日本一と騒がれている感じです。

最初は、ごみは燃やせばいいだけなのに何で燃やしたらダメなのか?みんなわからなかった。そこ

までせんでもいいのに、、、と思っていた。

Q、メデイアなどにリサイクル率日本一と言われたりすることをどう思いますか?

A、個人的な意見として、日本一ってどこでどんな調査をしたの?って感じでした。お菓子メーカーであれば、メーカー側がビニール袋などのごみは回収するべきだろうと思っていた。いつの間にか、みんなが洗って分けて捨てていた。

 

Q、おむつのように捨てることが当たり前だったものが再利用される可能性があるものって他にありますでしょうか?

A、必要以上の小袋包装とか減らして欲しいし、肉などは量り売りして欲しい

 

Q、別の場所に住む家族や友人には大崎町のごみの捨て方を伝えたりしますか?

A、大崎町にきた時だけは教えるくらい。押し付けない。無理強いはしない。

 

Q、自分のような東京の人に向けて大崎町のことで持ち帰った方が良いことは?

A、生ごみを肥料や分別してコンポストなどできることからやってみてください。

 

Q、大崎町の取り組みに対して、子供たちに伝えておきたい事。

A、これから先の世の中がわからない変化が激しい時代、若い人たちはそこについていかないといけない。そこで新しい知恵が生まれるはず。いい世の中になる事を期待して。

 

Q、今、楽しめていること、趣味などは何かありますか?

A、月に3回、8人チームでフラダンスを20年間やっていて老人施設のほうに慰問へ行く事が楽しめていることです。

 

◉最後に岡留さんのお話を伺って、、、

今まで住民ができることをしてきた歴史があり、リサイクル率83%まで資源を再利用する町となった大崎町の住民の努力があった。

次は、生産者となる企業が作った責任として、ごみにならない商品開発や生産でできた商品のごみを

回収する時代がきているかもしれない、、、と強く感じさせてくれた。。。

主婦の目線で話してくれた岡留さんは世の中の先を見る眼力を持つ方だと思った。

 

立花さん、本当に2日間、お付き合いありがとうございます!

素晴らしい方々との取材スケジュールを調整していただき感謝!

 

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